説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年5月10日(復活節第5主日) 

父と一体のイエスの約束  

ヨハネによる福音書14章1-14節

  ヨハネによる福音書第13章でイエスは弟子たちの足を洗った後、最後の晩餐と言われる食卓におつきになられました。21節から弟子たちの中に裏切り者が出るという予告をされ、「互いに愛し合いなさい」という、新しい戒めを制定されました。そして、ペトロには鶏がなくまでに三度、イエスを知らないというだろう、離反の予告がありました。そして、食事の席でイエスは、世に残していく弟子たちに向けて説教をしました。このイエスの決別の説教を聞いて弟子たちは不安に陥っています。

そこで、きょうの福音は「心を騒がしてはならない。神を信じなさい。」そしてわたしを信じなさい、という動揺した弟子たちに向かって語りかけます。

 ヨハネ福音書では、イエスはもう目に見える形ではいなくなります。一世紀末に書かれたヨハネ福音書の再臨は、共観福音書のように「天の雲に乗って、終末の審判を行なうためにやってくる」という遠い先の終末観ではなく、イエスの臨在はこの時、すでに自分たちの中で実現していること、聖霊が守ってくださると約束されたこと、として伝えているのです。これは初代教会が終末の遅延と言う問題を抱えたヨハネ共同体の固有の答えなのかも知れません。だから今、「信じなさい」、神とイエス以外のものを頼りにしている限り、わたしたちの不安や心の動揺はなくなりません。おびえだけが残ります。信じるとは、「イエスという方に全幅の信頼を置き、自分自身を委ねる」ということでしょう。

 今の困難な状況の中にあるわたしたちも、そのイエスの約束が、自分たちの中で実現している、と感じたときに、イエスは今も生きている、と確信することができるのです。「神から派遣されて天に帰っていくイエスは、弟子たちのために、天に住居と場所を用意し、彼らを父と子の交わりの中に入れようとされているのです。そして、その用意ができたなら戻ってくる、と言われます。このとき弟子たちはイエスの行くところをすでに知っていることが前提になって語られています。弟子たちは知っているはずですが、知らないと思い込まされているようです。

 そこで、トマスは「わたしたちは、その道を知りません。どうしたら私たちはその道を知ることができるでしょうか」という問を発します。それに対してイエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である」と、答えます。「わたしは道である」というときの道は、イエスご自身がこれから歩むことによってできる道です。そして、このイエスの道は十字架の死で終わる道ではなく、死を通って神のもとに行く道なのです。

 先主日は、「わたしは門である」というイエスでしたが、きょうは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」というのです。イエスが十字架に命をかけて切り開かれた道をわたしたちも歩んでいくのです。それがイエスの道であり、父へと至るただ一つの道です。 

 フィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と願います。そう思うのは、今も昔もすべての人の心の奥深いところにある願望でしょう。人間は誰でも神を見たいという思いです。これに対するイエスの答えは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」と父とイエスとの一体性を強調します。イエスの語る言葉は、父から出て、イエスの行なった業も父から出ているのです。言葉によって信じられない者は、わたしの行なった業を見て信じなさい、と言います。イエスは、サマリアの女に「生きる水」を与え(4章)、ラザロに「命」を与え(11章)、生まれながら目の見えない人に「光」を与えました(9章)。これらはすべてイエスのうちに働く神の業であります。イエスが父のもとへ行き、共に住む場所を弟子に準備することを信じ、イエスは真理と命を与える「道」であると信じ、イエスと神が一体であると信じる者は、イエスの業を行う者になる、と励ましています。トマスの問いに対してもフィリポの問いに対しても、現実の地上で苦悶するヨハネ共同体の姿がこれであっただろうし、父と子の一体性、神とキリストの一体性こそが、ヨハネ共同体の宣教の中心であったのでしょう。

 この訣別の説教の前半の締めくくりとして、12節で、「アーメン、アーメン、わたしはいう、あなたたちに」とイエスは約束されます。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と約束されますが、「わたしたちがイエスよりももっと大きな業を行うようになる」ということは何を意味しているのでしょうか。常識的には素直に考えにくいことです。この文脈の中で理解できることは、続いて「わたしが父のもとへ行くからである」と言われています。

 イエスが父のもとに行くことによって実現するのは、パラクレートスとしての聖霊が残された弟子たちのところへ降り、弟子たちとともにいてくださるということです。イエスを「信じる者が行う業」とは、彼ら自身の働きというよりも、信徒のうちに、信徒を通して働く聖霊の働きだと言うことができるでしょう。そして、それは地上でイエスが行ってきたことよりももっと豊かな大きな働きだと言えるのでしょう。天に場所を移したイエスが父と一体である神によって、イエスの祈りが叶えられるのです。神に栄光が輝くために生き、十字架に死に甦った復活の命が現れます。イエスの名によって願うことは何でもかなえられると、いう約束は、わたしたちに大きな勇気を与えてくださいます。わたしたちは父と一体である神に委ね、聖霊なる神に支えられる日々でありますように祈りましょう。