説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年4月19日(復活節第2主日) 

イエス弟子たちに顕現する - わたしの主、わたしの神

ヨハネによる福音書20章19-30節

  復活日の福音は「空の墓」の物語でしたが、復活節第2主日のきょうの福音は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」が記されています。

 それは20章19節の「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに顕れた箇所です。内容をご一緒に見ていきましょう。

 19節にその日、週の初めの日の夕方「弟子たちはユダヤ人を恐れて」とあります。イエスが逮捕され、裁判で有罪になり、十字架で処刑されてしまいました。だから弟子である自分たちにもどんなとばっちりが、及ぶか分かりません。巷にはイエス一味の残党探しに躍起になっているユダヤ人たちがいるので、弟子たちは恐怖におびえ、だれの家か分かりませんが家に閉じこもり、家中の戸に中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。しかし、閉ざしていたのは彼らの心の戸でもあるのです。その心を閉ざしていた弟子たちのただ中にイエスが「来た」のです。弟子たちの集いの「真ん中に」立ちました。イエスは「あなたがたに平和があるように」と挨拶して、彼の両手とわき腹を示し、もう一度「あなたがたに平和があるように」と述べて、彼らに息を吹きかけています。弟子は恐れから解放され、喜びに満たされています。(20節)どこから入ってきたのだろう、と考える必要がありません。復活したイエスは時間と空間を超越した方です。イエスの「あなたがたに平和があるように」という挨拶は、これは14章の告別説教でイエスが約束していた「平和」(14:27)の成就であります。この「平和」が恐れを喜びに変えるのです。

 イエスが約束していた「平和」が今、現実のものとして弟子たちに与えられたのです。イエスの挨拶は恐れていた弟子たちの恐怖感を喜びに変え、文字通り「平和」をもたらすものになりました。この喜ぶ弟子たちに、さらにイエスは息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪が赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という権能が弟子たちに与えられたのでした。

 創世記で神が「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」ように、イエスは弟子に息を吹きかけました。弟子たちは復活のいのちに生きる者へと新たらしく創造されました。神の息吹は、すべてのものを新たにして、人をまったく新しい存在に変えてしまわれるのです。

 イエスは二度にわたって弟子たちに現れていますが、そのいずれもが週の初めの日、つまり日曜日のことであります。週の初めの日というのは、キリスト者が礼拝を行う日であります。

 主日礼拝が行われるときにはいつも、イエスはその真ん中に立ち、「あなたがたに平和がありますように」と語り掛けています。

 十字架の死によって、わたしたちの罪を贖ったイエスは、復活によって死に打ち勝ち、死をも超えた「平和」を私たちにもたらしました。この「平和の主」と共に生きる者は、「わたしの主、わたしの神」と告白することになるのです。

 この告白は神の息が吹き込まれ、新たな使命を与えられた者が喜びのうちに行う信仰告白なのです。

 本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスがともにいてくださるから何も恐れることはありません、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、頑なな心の扉を内側から開いて出て行くことができるのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節) と宣言されます。イエスがこれまで父である神に派遣された者として地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。

 聖餐式の最後で「主とともに行きましょう」と宣言するとき、冷ややかな世へ、遣わされているのです。

 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)ので、トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられないような言葉であったでしょう。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中にいたとき、トマスも一緒にいた」のです。トマスは、弟子たちが集まっている真ん中にいるイエスに出会いました。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)と言う言葉は、わたしたちへの祝福の言葉だと言えるのではないでしょうか。

 なぜならば、初代の使徒たちの時代の後のキリスト信者は、皆「見ないで信じている者」だからです。

 イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかったこと、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは、わたしたちのいのちも次の天の御国に繋がっているのです。トマスのように「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能かもしれません。そうであるならば、サドカイ派の人たちと同じです。

最後に、ヨハネ福音書が書かれた目的は、イエスが神の子キリストであると「信じる」ためであり、また「信じて」いのちを持ち続けるためであります。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとの交わりへと導いてくれる福音書だと言えるでしょう。