説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2020年4月12日(復活日、早朝) 

イエスの甦りと弟子たち

マタイによる福音書28章1-10節

復活日の聖餐式には「復活徹宵祭」と「通常の時間帯の聖餐式」が行われています。さらに聖公会では「夕刻にも聖餐式」が行われている教会もあります。古代ユダヤでは地域によって時間が異なりますが、日没日から新しい一日が始めることになっていました。イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられます。

 きょうのマタイ福音書の箇所は、「地震」とともに「主の天使」が現れます。マタイはここに神の大きな働きを記しています。ここで告げられる言葉はまさに神の言葉であることをはっきりと示しています。彼女たちが墓に行った瞬間に墓が開きます。墓の入り口が開かれるのは、イエスが墓を出て行くためではなく、マグダラのマリアともう一人のマリアという女性の弟子たちに空の墓を見せるためだと言えるでしょう。「マグダラのマリアともう一人のマリア」はマタイ27章61節でもイエスの埋葬を見守っていた女性でした。男の弟子たちが逮捕された瞬間、イエスを見捨てて逃げ去りましたが、最後までイエスについていった女性の弟子たちの姿がここにはあります。そして、弟子たちに知らせに行く途中でイエスに出会いました。そこで先にガリラヤに行くと告げられ、弟子たちへの伝言を依頼されました。

イエスの「復活」とは、死んだ人が生き返ってどこかへ行った。という単純な話で良いのでしょうか。物理的に墓の入り口が開かれて、イエスの遺体がなくなっていました。これらの出来事は、イエスが復活したということを弟子たちに悟らせるためのしるしと位置付けることができます。と言いますのは、マタイ16章21節に「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると、弟子たちに打ち明けられ始められた。」ペトロはイエスをいさめ始めました。「そんなことがあってはならなりません。イエスは振り向いて、ペトロに言われた。「サタンよ。引き下がれ」、と。このように、筆頭弟子のような存在のペトロさえイエスのことを理解していなかったのです。実際にみせて、体験させなければ分からないことだったのです。メシアは決して死なないし、そんなことがあってはいけないことだったのです、とペトロが言ったことがおこったのです。
そして、24節、それから弟子たちに言われました。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。
マタイによる福音書が伝える、復活したイエスに出会う弟子たちは、十字架を担う者に変えられました。

わたしたちの中にもさまざまなことに対する恐れがあるでしょう。わたしたちは恐れに囚われて身が凍り付くこともあるでしょう。そんな時に 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。マタイ福音書が伝えようとする復活のイエスは、目には見えないですが、永遠にわたしたちと共にいてくださるイエスなのです。そして目に見える形で、最期の晩餐でご自身がパンを裂き、これはあなたのために与えるわたしの体である。またぶどう酒をこれは私の血である。と与えてくださいました。この聖餐・ユーカリストが主イエスを記念して、イエスが共にいてくださることの見えるしるしです。命のパンを頂いて、小さくされた人と共にイエスの十字架を一緒に担わせていただきましょう。わたしたちは一人ぽっちではないのです。イエスが共に担ってくれるのです。