片付けものをしていて偶然見つけた。目を通すと大阪時代に聖愛教会の「大斎の証」の原稿だった。

つたない内容だが、自分の信仰の遍歴の縮図のように思うのであえて、ページに残して置いてと思いなおして再編集してみた。
強引にひき寄せられて
フランセスカ 小原澤 栄子
聖バルナバ助産婦学院教務主任
1994年3月27日
今日は、わたくしのようなものに証の機会をいただきましたが、皆様に証できるような生き方をしておりませんがお受けすることに致しました。 私は茨城県の下館聖公教会で受洗して暫く(17年間)を神愛修女会に属しておりました。その間の3年間(1963年〜1966年)当時東パキスタンと呼ばれた現在のバングラデシュで現地人ナースの助産技術指導に当たりました。

帰国して宿年の右の痛む股関節の手術を受けました。これは私には「晴天の霹靂」でした。勿論痛む右股関節を引きずりながらの半生ではあっても結構、健康な部類の範疇を歩いてきた私には大きな試練でした。

この手術は直接ではないにせよ、私の修道生活の中断の引き金になったのは事実です「捧げる」と言う意味、つまり「不完全のままの自分、全てありのまま」を神様にゆだねる事が「捧げる」事なのだと言う信仰がかけていた為にその現実が、受け止められなかった結果のなのだと思います。

結局、私はその手術の後に修道会を去りました、イコール、わたくしのライフから教会生活を遠ざけました。そうした長い心の放浪の後、神様の忍耐も極みに到ったのでしょう、再び病気と言う手段で神様にわたくしの心を振りむかせられたのです。

1984年の暮れも押し迫って、猛烈な咳と胸痛の発作で入院し、畳1畳分の生活空間で神様に対峙させられました。それまでは意識的に神様から顔を背けてきたのですが、若し回復したら「自分の生き方を「変革」しなければ」という考えが漠然と芽生え、次第にはっきりしてきました。

その頃の私は未だ教会から隠れるように栃木県の独協医科大学の看護学校で教務主任と言う職にいて看護学生の教育にたづさわっていましたが、北関東教区から見つけ出されてバングラデシュでの協働活動の要請を受ける結果になりました。どちらかと言うと強引ではありましたが、わたくしの中にある変化が起こっていた時でもありまして、思い切ってその活動に同意することになりました。

バングラデシュでの活動期間中(1986年2月~1992年3月)は北関東教区だけでなく、広く日本聖公会の多くの方々から物心両面のお支えを頂いてその任務を終えることが出来ましたことをこの場をお借りして改めて御礼申し上げます有難うございました。
この6年間は皆様からは「大変なところで、ご自分を犠牲にして、神様のため、教区の為、日本聖公会のために」と言っていただきましたが、決してそんな大層なことではありません、お陰さまで大変楽しい6年間を過ごすことが出来たと思っております。

私はいつも自分本位で何事も自分中心に考えるたちなので、とても「人のため」「教会のため」「神様のため」それだけだったら、とても、6年間も長続きしないでさっさと帰ってきてしまったと思います。私の派遣母体(北関東教区)は活動に当たってはやかましいことは一切言わず、私の自由にさせてくださった事が、私を6年間もバングラデシュに居付かせた最大の要因と今でも感謝しているのです。若し、今度は私の左股関節の痛みと言う警鐘がなければ何時までも居座り続けていたかも知れません・

とうとう我慢の限界にもなり、コントラクトの3年2期の時期でもあって帰って参りました。

1992年5月左股関節の置換術を受けリハビリテーションをしてもう少し仕事をしたい、でも聖公会とは無縁のところでのびのびとしたいと言う密かな野望を抱いていたのです。事実地元の栃木県でも2.3声かかりがあり、決め迷っていた矢先の暮も迫った頃母校の聖バルナバ助産婦学院の緊急コールで考える暇もなく、大阪に住み着くこととなりました。              

このように私はいつでも「抵抗しがたい力」に強引に支配されているように思うのです。そして図らずも日本聖公会に属する聖バルナバ助産婦学院で毎日学生と礼拝をし、主日礼拝はバルナバ病院のチャプレンが司牧する聖愛教会で守ると言うパフォーマンスを演じてきたのです。

大阪を知らない私はバルナバのチャプレンを兼任される司祭の教会を選んだのですが、以前バングラデシュで活動中に北関東教区のバングラ担当の司祭と大阪を訪問したとき鶴橋で焼肉をご馳走になった司祭が城南教会の司祭であることを知っていたら、バルナバから最短の城南に決めて居たことは間違いなかったと思います。

このように何事自分の都合に合わせた生き方は、私の信仰がいつもぐらついていて、自分に不都合が生じると十字架に向って「こんな筈ではなかった」と愚痴をこぼす事しきりです、丁度、旧約聖書の中のヨナのように、いつも神様の前から逃げる事ばかりを考える毎日なのです。

私が皆様に「証し」出来ることと言えばいかに不信仰でいい加減な生活暦であったか、と言う ことでしかないのですが、いつも目に見えない糸で結ばれていてかなり遠くまで逃げられたと思ってもつまりはその糸で手繰り寄せられてしまう孫悟空を演じているように思われてくるのです。丁度天空を自由に飛んでいても、お釈迦様の手のひらの上でしかなかった孫悟空や、神様が命じたニネベの反対方向に逃げたヨナが鯨に連れ戻されたように、今回のバルナバへの就職も「聖公会と関係のない」と言う自分の意志とは裏腹に決まってしまったように思うのです。そしてあまり抵抗も感じないで、助産婦学生と毎朝の礼拝を守り、主日には教会に行くという儀式を演出してきているのです。

何度も申し上げているのですが、信仰の証しを出来るような私ではないのに、ご指名、そしてご静聴頂き有難うございました。

いよいよイースターを迎える最後の主日となりました。私も神様のみ声をいつでも聞けるように、自分の生き方を正してゆきたいと思います。

皆様もどうぞ祝福多いご復活をお迎えください。  


    
《ほっとひといき》 
                ヴェロニカ藤田伸子

今回は、小原澤姉にお願いしました。貴重な原稿をありがとうございました。
バングラでの活動、大変なことも多々あったに違いないのに、「楽しい6年間であった」と締めくくれるところがすごいなあと思いました。「毎朝祈って…」というくだりではマザーテレサも祈りから一日を始めていたことを思い出しました。

やはり神様の力、信仰の力は計り知れない物があるのだなと感じました。
左右の股関節を手術されたことも初めて知りました。どうぞ、御自愛下さい。

機会がありましたら、バングラの生活のことやカレー作りなどを御指南いただけると有り難いです。楽しみにしています。
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