ワィツェル司祭
リチャード 佐藤嘉道
桜月、4月になるとワィツェル司祭、通称ファーザーワィツェルを必ず思い出してしまいます。

高校を入学して間もない頃、たどたどしい英語であいさつをするとファーザーはすぐに私を引き寄せ暖かい胸に強く抱きしめたのでした。そのような経験があまりない私は、顔が赤くなるのを感じ、驚きと恥ずかしい気持ちと妙な安心感が入りまじった衝撃をうけました。

ファーザーの人を自然に受け入れてくださるやさしさはその時からいつも変わる事がありませんでした。ファーザーの心の在り方が本当のクリスチャンの生き方の表れなのだと理解できたのは高校卒業後でした。ファーザーが下館を去り、埼玉の志木に移り、私も学生センター志木に入ることになりました。

当時、チッキ(鉄道で荷物を送る方法)で荷物が届き、すぐ司祭宅に行くと再び抱き寄せられ、以前のあの瞬間の暖かさが伝わり、胸が熱くなりました。私が来るその時間を待っていたかのようでした。

次の週には「家庭教師をしてみませんか?」と言われました。それはいやであればいつでもことわっていいというような、学生の私にも気遣いに満ち溢れた「すすめ」でした。そればかりでなく、お金のない頃になると「庭の芝がのびたので刈ってくれませんか?」という伝言をいただき、コーヒーまでごちそうになり「アルバイト代です。」とお金をくださるのでした。心くばりのやさしさは言葉に言い表せないものでした。
学生センター寮では、毎朝早祷式が行われていました。ファーザーの姿はキリスト者そのものでした。

ケネディ大統領が暗殺された時の礼拝は、いつものファーザーには考えられないような速く語気の強い英語でした。終わると「すいませんでしたね。速かったでしょ!」と皆にあやまる口調で言われました。すでに、いつものファーザーに戻っていました。
10年後、私はオランダで右足を痛め入院。3ヶ月後に歩けるようになり、アメリカの医者を訪ねることになりました。その途中、ファーザー宅に数日間滞在する機会がありました。

田舎の駅に到着するとファーザーが待っていてくださり、再び高校大学時代のあのなつかしい胸の暖かさを感じました。奥様が病院での夜勤の為、昼間いろいろな教会にご一緒させていただきました。

奥様が日本にいた頃は、気むずかしい人と下館の教会の人達にも思われていたのを気になさっていました。本当は話し好きの面白い人でした。私も当時若く考えも及ばなかったが、今となると小さい子供を持ち、回りの人ともなかなかうまくいかない外国生活は精神的にも大変だったろうと推測できます。英語はファーザーがきれいな発音なので英語を教える機会を持てなかったと言われました。

ファーザーが2年もの闘病生活後、天に召され、その後奥様だけがビーちゃん、デビちゃんと暮らした思い出の地、下館を訪れてくださることになりました。アメリカでお会いしたとき、殆ど忘れていた日本語があまりに流暢に話されていたので驚きました。随分練習をしたとの事でした。「ファーザーがいなくなり淋しいでしょう?」ときくと即座に「No! また会えますから…」と答えられました。そして初めて奥様が抱き締めてくださいました。

私は目頭が熱くなり、その瞬間、ファーザーの胸の暖かさを思いだし、再びそれを味わうことが遠からずあるのではないかと思いました。


※ワィツェル司祭について
1985年 65才で逝去
ペンシルバニア州生まれ ナショタ神学校卒。アメリカ陸軍チャプレン時ジャクリーヌ夫人と結婚。
1954年 下館教会にて佐藤忠輝司祭と共に司牧、その後志木学生センターに移る。立教高校のチャプレン。
1965年 帰国
☆愛詩編 23編 主はわたしの牧者、わたしは乏しいことがない。
☆よく学生センターで歌った聖歌  371番
   主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも おそれはあらじ
☆好きな日本の歌  「浜辺の歌」




《ほっとひといき》               ヴェロニカ 藤田伸子
 佐藤さん、興味深いお手紙をありがとうございました。教会の歴史の生き証人ですね。それにしても、とても恵まれた素晴らしい時代であったように感じます。371番、心の底から歌いたい気持ちです。
 次号は、後藤姉の予定です。どうぞお楽しみに。
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