わたしの好きな聖歌
フランシス秋葉晴彦
わたしの故人愛唱歌は今のところ437番です。「今のところ」と書くということは、「絶対にそれ!」と決まっているわけではないということです。大学生のころ、すなわち初めて聖歌というものを意識したときは(実は幼稚園時代にも歌っていたらしいのですが、意識の外にありました)、197番が故人愛唱歌でした。そのころ習っていたラテン語のクラスで、197番の楽譜の右上に書いてあるメロディーの名前が「平和」を意味するPAXだと教えてもらったことも、この聖歌が好きになった理由のひとつでしょう。
大学を卒業するころには188番が好きでした。『遠すぎた橋』という映画があり、敵に囲まれて絶望したイギリスの兵士がこの聖歌を歌い出すというシーンが耳に残りました。歌詞を確認してみると、静かな希望を見いだすことができるのですが、その前に絶望的な言葉がたくさん置かれていました。それもどこかでそのころのわたしを惹きつけていたのかもしれません。
そして437番の登場です。これは神学院に入る前、サラリーマンをしていたころに教会の仲間に教えてもらって以来好きです。なので、かなり長い間故人愛唱歌候補の一位にとどまり続けている曲です。この歌の最初の歌詞は「主よ終わりまで仕えまつらん」です。主は「しゅ」と読みますが「あるじ」と読むこともできますね。我が家であるじと言えばネコたち。われら人間は「しもべ」としてお仕えする身ですから、「しもべ同盟の主題歌」として親しまれている曲です、というのはうそです。今までの3曲すべてに共通するのですが、どれも内声部がきれいなのです。
わたしは合唱するときにはテナーという男性の中では高い音を担当します。内声部がきれいということは、テナーやアルトといった地味なパートを歌っていて楽しいということなのです。テナーのパートだけ歌うとおもしろくもなんともないのですが、メロディーと一緒に歌ったときに、あるいは全員で歌ったときに、『おお、自分のパートはほかのパートに対してこんな風に絡まってきれいな和音を作るのか』と初めてわかり、胸がジーンと熱くなる、そんな経験をもたらしてくれる曲なのです。意外性に富み複雑な内声部を構築して見せるのがバッハという人であり、また非常に美しい内声部を響かせるのがベートーベンなのですが、それはまた別なはなし。
最近のわたしの悩みは、新しい聖歌集が編まれようとしていることです。来年(2006年)の秋には出版される予定と聞いていますが、その中にも好きな曲がたくさんあるのです。現在出版されている「試用版」の後半をぱらぱらとめくっただけでも2080、2087、2089、2092とわたしの好みの曲をあげることができます。困ったものです。目移りしてしまってなかなか故人になる決断がつかないじゃありませんか。まあそれは冗談として、歌謡曲番組の司会者に「うたは世につれ、世はうたにつれ」という名文句がありました。それにあやかって言えば「うたはわたしにつれ、わたしはうたにつれ」と言うことができるでしょうか。今どのように生きているかで好きな歌も変わってきます。ぱらぱらと聖歌集をめくりながら、自分の人生をふりかえってみるのもまた、楽しいことではないでしょうか。
《ほっとひといき》
ヴェロニカ 藤田 伸子
今月は、司祭様にお手紙をお願いしました。ご多忙の中、さらさらと書き上げて下さり、本当にありがとうございました。
437番…どんな曲だっけ?…と聖歌を片手に読まれている方も多いのではないでしょうか。(見なくても分かる!という方々、失礼いたしました。)オルガン担当者の哀しさか、フラットひとつだったら弾けるかな…などと音符から入ってしまいます。その路線で行くと188番はフラットが3つも付いているのでバンザイ状態です。歌う側にまわりたいと思います。
歌うことがお上手な秋葉御夫妻。ついつい固定化しがちな礼拝の聖歌もいろいろ取り上げて下さり、ありがとうございます。下館の教会のレパートリーはこの2年の内にかなり増えたように思います。
新しい聖歌集、歌える(弾ける)曲があるのだろうか、と不安です。礼拝の前後数分で、新曲(私にとって未知なる曲のこと)の歌い方教室があるといいですね。
運動会も無事終了し、いよいよ学習?の秋です。今年は4年生、算数の授業公開です。面積やかけ算と格闘する予定です。交通安全週間でもあります。事故にあわないように記をつけましょう。
次回は大倉さんに原稿をおねがいする予定です。どうぞお楽しみに。
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