「忘れないでくれよ」
体育の時間は生徒にとって楽しいものである。生き生きとして大声を出し、バレーボール・ソフトボール・サッカーなどのゲームになると熱が入り、終了5分前には、切り上げなければならないがどうしてもぎりぎりまで夢中になる。車椅子の佳弘君はいつも級友のゲームを眺めていた。体育教師のそばにいる時は班別の割りふりと試合のタームを担当していた。級友達は試合が終わるとすぐに彼の回りに集まり自分達の活躍ぶり、その内容を聞かせ、彼からコメントをもらい、又冗談を言い合い、その遣り取りが実に楽しそうであった。
終了のチャイムが鳴ると急いで着替え、次の授業の準備をしなければならない。その日はクラスの友人達は急いでいて彼の事を忘れていた。私の英語の授業が始まり、彼の最後列の席が空いていた事に皆気がついた。「あれ、佳弘君がいないぞ!」皆が彼の席に目をやり、何とも言えない空気が漂った。
「速く行ってこないと…」
「先生もいってみっか?」
走って体育館に入ると薄暗いステージの下に彼は一人でいた。
「悪りい。悪りい…」
車椅子を押す当番など決まっているわけではなかった。大体いつも仲のいい友人がしているので誰も頼り切っていたのだった。
「次の時間に気を取られちまって…」
「いいよ。いいよ。誰も来なかったらどうしようと思ったよ。…忘れないでくれよ。…」
教師には分からなかったが、こんな事は何回もあったであろう。私は体育館の隅で1人級友を待つ彼の気持ちを考えると胸の中がいっぱいになるのを感じ、言葉が出なかった。
「さあ!授業だ。行くぞ。」と言うのが精一杯であった。
「忘れないでくれよ。」これは計り知れない、勇気のいる一言であったろう。しかし、やさしい繊細な彼は、そのような状況でさえも友人を気遣っていたのだった。
卒業後、もう一度自宅で勉強するとの連絡を受けた。英語を得意としていた彼に学校と全国模試を持って行った。2時間で問題を終わり、採点という日々が続いた。
ある日、どんな話からそうなったのか忘れたが競馬の話になった。お互いに競馬に興味を持っていたのだ。
「今日のレースでは、ヤツは何メートル走るか知っているんじゃないか…。パドックでやたら落ち着いているぞ…」などと馬鹿話をする事もあった。
彼の受験勉強が激しくなる頃に、体調が悪くなり、ベッドに横になる事が多くなった。相変わらず、お互いに競馬は楽しんでいた。彼は馬の血統を念入りに調べ上げ検討した。一度決定した順位でも、頭に浮かぶものが違ってくると即座に変え、何度も何度も変更した。それも楽しみであろうが、不思議な事に最後の変更でよく当たり、さらに高い配当馬が入り、年間トータルではプラスであった。私は負けが多かったので先輩からは「佳弘君と同じのにしていればいいんだよ。」と言われた。
苦しい闘病生活に入っても、土曜・日曜になると、とてつもない集中力を発揮した。
陶芸の街・笠間市、地区懇談会・保護者の集まりの席で話をする機会があった。大体は進学校の為、成績中心であるのだが、佳弘君の話をする事にした。
「高校時代を受験がらみの成績に気をうばわれる事も多いでしょうが、学校生活、そして修学旅行が人生での最大の思い出となっている生徒もいるのです。
修学旅行の京都では、車椅子では入れないのではと思っていると一般客とは別に裏口から案内してくれたやさしい和尚。タイヤが汚れているので内部に入るのをためらっていると、「廊下は拭けばきれいになりますから。」と若い住職が力を貸してくれたお寺。新幹線ホームで一列になって道を開けてくれた極道の人達…といろいろな経験ができた楽しい思い出旅行であった。しかし彼はそれ以上の旅行はこれから先もう出来ない。そういう卒業生もいるという事です。……受験だけの高校生活ばかりではないという事、何が大切かという事も知ってもらいたいと思います…」
お母さん達に「今日は来てよかった」と言われた時、これが佳弘君が私に与えてくれた導きだったと実感した。
新年を迎え、ベッドから見える臘梅(ろうばい)の匂いが部屋に漂う頃から、呼吸困難を繰り返す日々が多くなった。しかし彼は、決して弱音をはくことなく、持ち前の気力を忍耐で危機を何度も乗り越えた。勝負魂は益々冴え、秋月、秋華賞を迎える直前、10月18日、29才の若さで旅立った。
「佳弘君おめでとう。最後の勝利、メジロドーベル・キョーエイマーチがきたよ。」
「元日や臘梅に佳気漂い」
「心に残る一言」より
《ほっとひといき》 ヴェロニカ 藤田伸子
佐藤さん、心にしみるお手紙をありがとうございました。外池先生も佐藤先生も教師冥利に尽きるお仕事をされていたのですね。同業者として本当に未熟者ですが、少しでもお二人に近づけるよう真摯にお仕事しようと思いました。
次号は村上姉です。どうぞ楽しみに。
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