讃美歌と私
マリア 垣谷セツ
私が物ごころついた頃、父は敦賀の税関の役人をしていた。父母共に敦賀の教会の信者であったので当然私も幼児洗礼を受けていた。冬になると雪がたくさん降るので、胸までかかる積雪をふみわけふみわけ日曜学校へ通った覚えがある。父はその頃教会の日曜学校のお手伝いをしていて、その日出席した子供達にご褒美として鉛筆を一本ずつ渡していた。敦賀港は船の入港が少ないので、平常はひまらしく「役所で教会の仕事をよくしていたもんだ。」とあとになって話していた。

その頃、隣の家の小父さんが映画館のお仕事をしていたらしく、時々入場券を何枚かくれることがあって、ある夜父が近所の子供達を大勢つれて行ってくれた。終わった後私は急にトイレに行きたくなって父に言わず黙ってトイレに行った。終わって席に戻ってみるともう誰一人残っていなかった。私は一人ぼっちで夜の暗闇の中をぽちぽちと歩きはじめた。まわりは田圃で灯り一つ無い本当の闇の中を歩き出した私は(まだ4,5才だったと思う)大きな声で讃美歌をうたっていた。“主ワレヲアイス主ハツヨケレバ、ワレヨワクトモ、オソレハアラジ、ワガ主イェス、ワガ主イェス、ワガ主イェス、ワレヲアイス。”何度も声を張り上げて歌っているうちに段々元気が出て一寸もこわく無くなってきた。

その頃我が家はお寺の境内にある借家だったので何時も塀の横にある小さな門をくぐり出入りしていたが、その門の近くにきた時に闇の中を男の人がものすごい勢いで走ってくるのに出会った。「あっ、お父さん?」「セツか!こわくさかったか?」「讃美歌唱ってきたから一寸もこわくなかったよ。」

イエス様がよく幼児の如くなれって仰っていましたが、大きくなるに従ってあの頃の純真な気持ちが段々とうすくなるのを悲しく思っています。

今一つの思い出は女学校(ミッションスクール)卒業の時、式後クラスの人達と教室に集まり“神ともにいまして、行く道を守り…”段々涙が出てきて、“また逢う日まで、また逢う日まで”のくだりになると泣き声も交じってきて涙と泣き声混じりの讃美歌になってしまいました。昭和9年の春でしたが今でもはっきりと覚えています。それから師範に入り、教会とは遠くなりましたが、88才を過ぎて今の平安な毎日を送ることが出来ますのは、長い人生の要所要所を何時も神のお導きによってたどりついたように思います。

60才になって急に東京に新しい仕事(ニット・デザイナー・プロ養成校設立)に携わる仕事をするようになりました。徹夜も辞さないような厳しい仕事でしたが情熱をたぎらせ、18年間東京に通うことになりました。たくさんの生徒を企業にも就職させ、一応の基盤も整って、78才でさすがに体力の限界を感じやめることにたしました。

それから2,3年。今までの無理が出てきて体調を崩し、不眠症に悩まされました。その時、孫が讃美歌のCDを買ってきてくれました。早速聞いてみると、私の心は遠い昔、暗闇の中を歩いていた幼心がよみがえってきたのです。ささくれだった心の中にしみじみとしみ込んでくるようです。あたたかだった父と母の懐に抱かれたような気持ちになって、今では毎晩、讃美歌のCDをかけながら眠りにつくのが習慣になっています。

私の最後のお願いです。父も母も“主よみもとに近づかん”で送りましたので、私も召される時はこの歌で送って貰いたいと思っています。




《ほっとひといき》               ヴェロニカ  藤田伸子信仰告白のようなお手紙をありがとうございました。
  思い出の讃美歌も3曲もご紹介いただきました。礼拝の折にもみんなで歌うことができたらいいなと思います。
  371番の“主われをあいす”は私も好きな聖歌です。今回しみじみと歌詞を読み直し、「弱い自分でもいいのだ。」と改めて赦しを感じました。昨日修了式を迎え、気持ちがすこしゆっくりしたせいかも知れません。つたないオルガン奏者としても唯一成功率の高い曲です。
  497番の“神ともにいまして”は3月という旅立ちの時期にぴったりの歌ですね。たくさんの司祭様方やそのご家族とのお別れ、幼稚園の先生方とのお別れ会で歌ったことを思い出します。
  そして430番。リクエストが叶いますよう、記録にとどめたいと思います。その日ができるだけ遠いことを祈りつつ。
  垣谷さんのように力づけられた讃美歌や励まされた讃美歌、思い出のたくさんつまった讃美歌など、みなさんいろいろな愛唱歌をお持ちだと思います。そのようなお手紙を是非いただきたいと思っています。
  文章化するのはちょっと…と言う方にはアンケートやインタビューという方法も考えています。ご協力をよろしくお願いします。
  次回は後藤美智子さんの予定です。どうぞお楽しみに。
BACK
はじめのページへ