信仰に辿り着く迄の道程
アンデレ秋元利治
終戦の翌年、昭和21年の4月、やっとの思いで上海から引き揚げてきた私は、自分が将来キリスト教の信仰を持つ様になる等と言う事は夢にも思っておりませんでした。それは今考えても当然だったと思います。
満州事変の頃から軍国主義の台頭が国民の思想を統一し、特に学生に対しては徹底した教育面での指導がありましたので、私達は、滅私奉公、忠君愛国で事ある毎に神社参拝、皇居遙拝。学校内での今で言う“部活”も、柔道、剣道、銃剣術が巾をきかせておりました。そういった状況にあった学生達が、突如敗戦という現実に直面したのですから、親達は勿論のこと、私達子供は、先ず日本に帰国できるのだろうか、という事以外何も考えられませんでした。まだまだ本題に入れませんが、先ずはこんな過程を経て無事日本に帰ってきた私は、東京の家が焼け残っていたことも幸いし、大学生活も大変な食糧難の中、無事卒業して、社会人になった訳です。
当時、それでもまだ宗教とか、信仰に関しては少しも考えてはおりませんでしたし、強いて言えば、秋元家は代々曹洞宗の信徒で本山は鶴見の総持寺だと親から聞いておりましたので墓も曹洞宗の寺にあると承知していました。しかしそれは信仰とは全然関係のない存在で私の頭の中にありました。
それが、就職して二年目位に掛かってきた一本の電話から急速に信仰の道に近づく事になったのです。その電話は私の小学校からの親友からのものでした。内容は、「今度インターンを経て聖路加病院勤務になったから暇なときに病院に遊びに来い」というものでした。当時私の会社は築地にあって聖路加病院迄は歩いて十分位でしたので、早速会いに行きました。普段病院というのは、どんな有名な病院でも体の具合でも悪くない限り足を向けません。私も歌の文句にある聖路加の十字架だけは毎日通勤途次見ていましたが、正直なところ中に入った事は有りませんでした。
幾度か訪ねている内、ある時「秋元、ここの礼拝堂に入ったことがあるか」と聞くので「まだ一度もない。」と言うと、「俺、今暇だから一寸案内してやろう。」と言って礼拝堂の中を見学させてくれたのです。それは素晴らしいものでした。三階迄吹き抜けになった高い天井と窓のステンドグラスが、重厚な建物の中に一種の荘厳さを醸し出していて、それは何だかプロテスタントの教会と言うより、カソリックの大聖堂のような感じでした。「丁度パパがおられるようだから、紹介してやるよ。」と言って、司祭の部屋で竹田真二司祭にお会いする事もできました。これが一つの切っ掛けでした。
司祭の勧めもあり、暇を見ては教会に聖書の勉強に通う様になったのです。葬祭の時だけ思い出したように行く感じの仏教に、信仰との矛盾を感じていた私は、両親の了解を取り付け、聖公会の信者への道を歩き始めるわけです。
私のクリスチャンネームのアンデレは竹田司祭が考えて決めて下さったものです。正直なところ最初はアンデレがどんな方だったかも認識していませんでした。でも竹田司祭の「君の教名はアンデレが良い。」との一言で決まってしまいました。最初はアンデレが漁師だったので、築地に居て魚河岸とも取引のある仕事をしていた私に、アンデレと付けて下さったのか、私の誕生日が11月でアンデレの祝日も11月だからかな、等と思って居りました。ある時司祭にそれとなくお聞きしたところ、そんなことではなく、「ただ君にはアンデレが一番相応しいと思ったからだ」と言われて「素晴らしい教名なのだから、この名前を辱めないようクリスチャンとしての自覚を持って、大勢いる若い信者の模範になって欲しい」と言われました。当時大勢いた若い信者達は今みんな私達同様老境に入ってしまいました。振り返って見ると、自身みんなの模範になるどころか、自宅が遠かった為に満足に礼拝にも出席できず、いつの間にかイースターとクリスマスだけの信者になっていました。
アンデレはイエスの一番弟子で、兄ペテロと共に最初からイエスと共に布教の道を歩まれた偉大なお方です。しかし、アンデレ秋元はと言うと、現実に振り廻されました。浦和の社宅が2カ所、そして大宮と転勤の度に動かされ、聖路加には母教会としての愛着はありましたが、浦和にも大宮にも聖公会の立派な教会があるので転籍の話をしたのでした。でも、籍は聖路加において日曜礼拝に行くときには、先方の司祭にその旨話をすればいいからと言われました。結局浦和の教会には3回ぐらい日曜礼拝に行きましたが、何となく余所者気分で何時しか従前の年2回信者に舞い戻っていました。
時代が平成となり、私も家内も現役を離れ、娘の勧めもあって大宮から現在の三和に家を建てた時は移籍の問題は特別問題なく決まりました。が、今度は教会を幸手にするか下館にするかで、又悩みました。最終的には中村司祭の奥様が、「幸手も良いけれど、今下館の教会には素晴らしい信徒さんが揃っているわよ。」の一言で私と家内の下館への移籍が決まったのです。
以来今日まで、下館のアンデレは次々と天に召された偉大なる先人の後を継ぐべく、自分なりに信仰の道を歩んで行く努力を重ねております。しかし、まだまだ未熟な求道者の一人ですので、皆様のお力によって少しでも主の御心に叶う様努力して行きたいと思っております。宜しくご指導下さい。
《ほっとひといき》 ヴェロニカ藤田伸子
今回は秋元兄から超大作の原稿をいただきました。戦中戦後の日本の様子がよく分かる文章に、社会科の教師としても興味が湧きました。ありがとうございました。 お二人の出会いについて触れられていなかったことを残念に思っているのは、わたしだけでしょうか…
私事ですが、大連や香港に行って以来、中国に親しみを持つようになりました。いつか秋元講師から上海の当時の様子や、中国語を教えていただきたい、なんて勝手なことまで考えてしまいました。
求道中という謙虚なお言葉に、背筋がピンと伸びました。
ご夫妻にこの下館の教会を選んでいただけたこと、本当に嬉しく思っています。お嬢様の病状が快方に向かわれますことを、心よりお祈り申し上げます。看護疲れで体調を崩されませんよう、お気をつけください。
来月は垣谷姉のお手紙です。原稿集めに苦しむ編集者を見かねて、すでに執筆して下さり、原稿もお届け下さいました。ありがとうございました。
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