クォ・ヴァディス・ドミネ

ポーランドの作家シェンキェヴィチの有名な作品『クォ・ヴァディス』の一場面、ネロによる迫害と官憲による逮捕を逃れて、使徒ペテロとひとりの少年が夜明け前のアッピア街道を南へ急いでいた場面が強烈で、決して忘れることなど有り得ないほどに焼き付いているのです。

朝もやの中から不思議な光の球が近づいて、その中に人の姿が見えてきた。それはまぎれもなくキリスト・イエスであった。老いたペテロは跪き、手を差し伸べ、むせびながら訊ねた。「クォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、何処へおいでになるのですか)すると、悲しげな、しかし、爽やかな声で「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」という言葉がペテロの耳に響いた。ペテロと一緒に歩いていた少年には何も見えず、何も聞こえなかった。失神したように倒れていたペテロは立ち上がり、震える手で杖をあげ、今逃げてきた都へと向きを変えた。少年はそれを見ながらペテロに訊ねる。「クォ・ヴァディス・ドミネ」ペテロは小さな声で「ローマへ」と答える。ローマに戻ったペテロはパウロと同じく殉教の死を遂げる。自ら、逆さ磔の刑を願って。
(この物語は2世紀末頃に生まれた伝説を元に書かれたと言われている)

私は、この場面を思い起こす度に、胸が熱く打ち震えるような感動を覚え、しばし落ち着くと、何かしら、叱られているようで、また一方で励まされてもいるようにも感じるのです。

「真理とは何か」

今年も間もなく受難週を迎えますが、ユダヤ総督ピラトが官邸でイエスに一連の尋問の後、最後に放った問いであります。しかしピラトは真剣に問うたのではなく、応酬の勢いで口にしたようでもあり、むしろ、甘っちょろい真理などあろうはずがない、という心情なのではないかと想像しています。彼が今の地位に就くまで、いや就いて尚更、生き馬の目を抜くような権謀術数が飛び交い、虚偽欺瞞こそ常識であるような、当たり前の真理とされる世界に生きていたのではないかと思うのです。その後ピラトはこの問いについて当然の如く関心は失せてしまいます。

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章16節)

イエスに出会うということは、今までの自分の生き方、価値観を激しく揺さぶられる経験です。自分を自分とならしめていた色々なものが崩されてしまうような危ない経験です。しかしながら、何か新しい可能性が自分にも与えられ、生まれてくるような、自分でも何かイエス様の手伝いが、ご用ができるような思いや願いが自分の内に湧いてくることを感じられるような、そんな驚きもあるのではないでしょうか。

イエス様との出会いは自分にとって苦い経験を伴うものであっても、新しい人間として生きる希望と可能性を与えられる出会いでもあるのだと思うのです。

真理とは何か…

私たちは知っています。

真理とは誰か…

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(一宮聖光教会牧師)

「gifted」恵まれた人

誰でも毎日必ずといってよいほど見ているものがあります。さて、何でしょうか?(知っている人、判っている人は暫し沈黙をお願いします。)

それは鏡です。鏡に映る自分の顔です。毎朝、そして日に何度となく自分の顔を見ているはずです。といっても、実は本当の自分の顔を見ているわけではありません。(鏡に映る顔は左右反対の顔でしかないのですから…)

中学生の頃でしょうか、自分の顔をしげしげと見ては溜息混じりに思ったことを覚えています。(遺伝的要因は承知しながらも)「神様は何故こんな顔にしたんだろうか」
「何故もっと美男子にしてくれなかったのだろうか…」
「不公平だし、意地悪じゃないか…」と。

当時はただ単にモテたいというだけの単純な疑問というか、不満に過ぎませんでしたが、この問いは、突き詰めると、何故世の中に不公平、不平等が存在しているのかという人類の長い歴史の中で問われ続けられている大きな課題であることは言うまでもありません。国籍の違い、性の違い、生まれながらに病弱な人もあれば、頑健な人もいます。何故生まれながらに自分の意思とは無関係に生存の諸条件が平等ではないのかという根源的な問題に突き当たります。

英語にgiftedという表現があります。贈り物を受けた「恵まれた人」という意味となります。ある雑誌に書かれていたものを紹介したいと思います。

彼は貧しい家庭の出身で、中学高校と新聞配達から野球場の弁当売りをはじめ、何でもして大学に入った。お金があれば幸せになれると考えていた。しかし大学に入学し、豊かな家庭で欲しい物は何でも手に入る仲間が、バイト先や学内で人間関係がうまくいかず苦しんでいるのを見て、自分が子どもの頃から様々な人間関係を経験してきたから人とのコミュニケーションが上手くいっていることを発見した。お金があり恵まれていると常に強者であることで、相手の気持ちを想像する必要が無く、それが問題点になっていることに気づき、彼は自分が「gifted」であることに気づいたのでした。

自分が願い求めているものは手に入らないかも知れませんが、自分本位で的はずれのような自分の願いにもかかわらず、与えられているものに気づかされた時の驚きと、有り難さはひとしおですね。

隣の花は赤いですか?

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(一宮聖光教会牧師、岐阜聖パウロ教会管理牧師、大垣聖ペテロ教会管理牧師)

『豊かな祝福』

唐突な質問かと思いますが、人生をもし、できることなら時間を遡って修正したい、訂正したいと思うことが皆さんはありませんでしたか?
以前の若かった時にはやり直したいと思っていたことであっても、もう歳を重ねた今日に至っては、消し去りたいと思っていたことがあったからこそ、今の自分があるのではないか形成されてきたのではないか、その消し去りたい修正したいと思っているものがむしろ自分には必要なことであったように思えてきたりもします。
今、自分が受容できないと思うことがたとえあったとしても、そこには大袈裟に言うと、真理となるもの、玉となるものがあるのかも知れないのです。この如何ともし難い「現実」を前にしても、いずれ振り返ってみれば、違った意味となり恵みとなることを信じて歩む、それが希望を持って歩むことなのではないかと思います。そしてそれは、やがて今までとは違った希望がこの先に待っていることを信じて生きる生き方、家造りらが捨てた石が隅の親石とされた世界での歩み、なのではないでしょうか。
あるひとつの詩を紹介させて頂きたいと思います。毎年迎えるこの季節ではありますが、ひとつでも気付きが与えられ、天使と共に賛美の歌を奏でるようなアドヴェントを過ごしたいものですね。

「答えられた祈り」

私は神に 強さを求めた
何事かを成し遂げるために
すると私は弱くされた
従うことを謙虚に学ぶようにと

私は神に 健康を求めた
もっと偉大な仕事をするために
すると私には病が与えられた
恵み深い仕事をするようにと

私は神に 富を求めた
幸福になるために
すると私は貧しくされた
智恵ある者となるようにと

私は神に 力を求めた
人々の称賛を得ようと
すると私には弱さが与えられた
自分には神が必要であることを自覚するために

私は神に あらゆるものを求めた
人生を楽しむために
すると私にはいのちが与えられた
あらゆるものを楽しむようにと

求めたものは何一つ手に入らなかったが
望んでいたものは すべて与えられた

的外れの私の祈りにもかかわらず
神はことばにならない私のほんとうの願いを聴いてくださった

私はだれよりも豊かに祝福を受けている

(南北戦争時代の一兵士による)

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)

『「ここにはおられない」マルコ16・6』 

イースターおめでとうございます。

もし、イエス様の生涯が十字架での死で終わり、復活がなかったとしたら、自分自身を含め、今日の世界はどのような世界になっていたでしょう。今、皆様が読んでいる「ともしび」はもちろん存在しなかったでしょうし、少し想像しただけでも、世界の歴史そのものが変容しているであろうと思われます。新約聖書そのものも存在もしないでしょうから、イエスという男の名前さえ、ローマ帝国の一地方植民地でしかないユダヤでのイエスという一介の大工の生涯などは誰も知る由もないことでしょう。当然教会もなく、キリスト教信仰もなく、今ある皆様との交わりも有り得なかったでしょう。「イースターおめでとうございます。」と御挨拶したものの、何がおめでとうなのかを自覚し、改めて心から挨拶を交わすことが出来、大きな力が湧き上がって来るのを感じることが出来れば、これこそ、復活の力のように思うのです。

聖書が語る復活は「復活は可能か」とか「復活された主イエスは、肉体か霊体か」「復活の意味するものは何か」とかではありません。それよりイエス様の復活に接した人々の経験を中心に、この復活された主によって人々はどのように変わったか、造り変えられていったのかに関心を寄せ、信仰が理論ではなく、生活であることを示そうとしています。しかし、「復活」というものは、聞けばすぐ判る、教会に行けば、簡単に信じることが出来る、というものではありません。イエス様の直弟子達でさえもが疑い迷った出来事です。復活が事実かどうかを確かめることも不可能なことです。大切なことは、復活されたイエス様に出会った弟子達、臆病者が勇敢に、無学の凡人が卓越した伝道者へと造り変えられたということなのです。

常識や経験が否と判断する社会に私達は生活しております。単にイエス様の言葉であるという理由で行動に移すことはなかなか困難なことです。そればかりか、私達の経験や知識や真剣な努力さえもが徒労になるような社会です。戦争や災害、事故が一切を無にしてしまうことを知っています。しかしイエス様を復活させられた神は、万物を従わせる力によって、私達の悲しむべき状況や神に敵する現実を変えて下さる、労苦が徒労に終わることがないという約束をイエス様の復活によって保証されたのだと思います。

経験や努力に行き詰まったとき、呟きや嘆くだけでなく、しばし手を止めて、岸に立たれる主の言葉を聴き、網をおろす者とされますよう祈りたいと思うのです。

司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)

『声を失って』 

始めてでした、こんなこと。時々声がガラガラ声になることはありましたが、経験したことなんかありませんでした。

降臨節前主日を明日にした土曜日です。数日前から声がかすれてきてはいましたが、発声するのに力まなければならなくなりました。月曜日に医者に行くつもりでしたが、日曜の朝には、口パクだけで声が出ない、焦りました。特に今日は収穫感謝と子ども祝福式の日。何とか根性出して乗り切りましたが案の定、翌日には全く声が出なくなってしまいました。

火曜日は定期教区会でした。点呼での返事もできず、代返を依頼しました。私はとうとう自分の声を喪失してしまったのです。

クリスマス物語では不思議な誕生の話が二人の女性によって展開されていきます。すぐには思い出せなくても誰もが良く知っている出生の秘密の物語です。

ひとりは言うまでもなくマリアとイエス様の懐妊です。もうひとりはエリサベツと懐妊です。さぁ誰でしょう。

エリサベツの夫はザカリヤという名の神殿に仕える祭司でした。この夫婦は子に恵まれず諦めていましたが、御使いが夫ザカリヤに妻の懐妊を伝えます。彼は常識や経験に基づいた判断に固執するあまり、(後の)ヨハネの誕生をあり得ないことだと主張したので、『時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから』と、神のお叱りを受けて声を取り上げられてしまいました。

このザカリヤが祭司であることと、降臨節という時節であることが相重なって、「今私に起きているこの状態や状況は何を意味し、私に何を告げようとしているのか」などという大層な宿題を意識させるクリスマスを過ごす羽目、いえ、過ごす恵みを与えて下さいました。

言葉を失い、主張する手段を失ったザカリヤは声を失った期間が悔い改めの時になりました。彼は静かな沈黙の内に神の言をかみしめることを求められました。語る声を失うことは、ただ人間の経験や常識の言葉だけをしゃべり続けようとする自己中の主張に対する警告でもありました。

私も同様ですか?とお尋ねしても返事は聞こえてきませんが、発言に制限が課せられたので、聴くことが必然的に多くなります。意識しない内に、すぐ言い返すようになっていることに気づきます。私が言い返さない・返せないことをいいことに、耳の痛いことを聴くだけ。又、外出しても、こんなに声を出しているのかと驚きます。会話でなくとも音声を発しないと存在自体に気づいて貰えない、それが自分の身の安全に直結しているのです。そんな危険に満ちた社会に私達は住んでいるのです。これには驚きました。

一ヶ月を経て少し回復はしていますが、まだ以前の状態には戻っておりません。声を失ったことで、対話は「話し方」ではなく「聴き方」にあること、声を出したくても声も出せずに存在までも気づいてもらえない者がいるのではないか…今年のクリスマスは主なる神が意識と関心を向けている場所を示されたように思うのです。

司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)

『「クリスマス難民症候群」』 

「ははぁ~ん」 と察しのつく方は随分と、 ここ数年の世事や人の心情にお詳しい方のように思われます。
これは何だ? と思う方、 巷ではこんな言葉が次々と生まれているようです。

『街に繰り出せばクリスマスソングが流れ、 イルミネーションやネオンが妖しく欲望を小刻みに心地よく刺激し続け、 誘惑するように輝くクリスマス商戦真最中。 パソコンを立ち上げれば、 スタートページからクリスマス仕様。 いよいよクリスマスから始まり、 カウントダウンイベント、 バレンタインデーと続く恋人たちのイベントシーズンの到来である。 巷に溢れるお祭りムード、 これではキリスト教信仰者でなくとも、 意識するなという方が無理な話で、 さも普段通り過ごすことを否定されているような心境にさせられてしまう。 見事に、 しかも時間を掛けてしたたかに仕掛けられたイベントムードの刷り込みマジック (マインドコントロール) の成果が現れているのでしょう。
プレゼントは何を贈ろうか、 ケーキやレストランの予約急がなきゃ、 そんな話題に一人参加できず、 取り残された気分、 彼氏が欲しいのはヤマヤマだけど、 焦っていると思われるのも癪。 クリスマスなんてやって来なければいいのに、 こんなお祭りムードを煩わしく思う 「クリスマス難民症候群」。』 (web コラム投稿から筆者が加筆・修正等を加えた後、 転載)

「今日ダビデの町で、 あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである。 あなたがたは、 布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」
(ルカ2・11~12)

私たちひとりひとりに与えられた場でクリスマスを待つアドベントの日々が始まりました。 季節は師走でもあり、 夕暮れが早いだけに何かと気ぜわしくイライラ仕勝ちで、 アドベントの本意とは気持ちがずれる季節でもあります。 「待つ」 「待たされる」 ことが好きでない、 じれったい私たちは、 「待つ」 にふさわしい、 「待つ」 に価する本当のもの、 確かなものを知らないから、 なのかも知れません。

はるか二千年も昔のイスラエルの民は、 民族的にも個人的にも真の贖いを待ち望み、 時の満ちるのをひたすら待ち続けておりました。 そしてついに、 しかし神は真に待ち望む者にしか観ることができない、 という仕方でその 「しるし」 を与えられたのです。
闇が地をおおい、 暗闇と悲しみ、 嘆きが諸国の人々をおおっているこの世界を欲望の炎の輝きをもってしても魂の闇を光で満たすことはできませんでした。 又たとえ欲望が与え、 欲望がもたらす豊かさにしても魂の渇きを癒すことはこれからも決してないでしょう。
ネオンやイルミネーションの誘惑的な輝き、 欲望を一層掻きたてる妖しい輝きに彩られたアドベントではなく、 闇の中に輝く神の救いの輝き、 希望をもたらす真の輝きを見つけ、 これからも見つめ続けることのできるクリスマスを迎えたいものです。

司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)

『人間回復』

心身が癒されるような早朝の空気の爽やかさ、澄み渡った青く高い空に、夏の疲れや記憶も薄れて行くようです。この夏は温暖化の影響が一層現れ、長雨、雷雨、豪雨の次は、連日のじりじりと焼かれるような日差しと暑さが際立ちました。被災された皆様にはまだまだ心労が絶えないことと思います。心よりお見舞い申し上げます。
季節が移ろうにつれ、爽やかで、すがすがしいと、食べものが美味しい。美味しいものを食べると幸せな気持ちになる。幸せな気持ちになると穏やかで優しく、なります。
人の気持ちといった心や身体の状態も気候に左右される、いやむしろ自然の一部なのだとあらためてつくづく思うのです。人がいかに気候に、精神的にも肉体的にも影響され易い弱い存在か、を著わしたものがあります。モーパッサンの短編『雨』(※題やあらすじに間違いがあるかも知れません。記憶だけのため、その際にはご容赦下さい)
希望と夢に満ち溢れた一人の青年宣教師の話であります。
南海の島にキリスト教宣教師がやってきた。人々は大らかで、陽気で、親切で、生きていることを心から楽しんでいるような生活を送っている。しかし、彼には倫理観が欠如し、神を知らしめ、救うべき人々としか見えなかった。自分の務めがこの島においてはいかに重要であるかを確信し、この島に来たこと、その導きに感謝し、毎朝、伝道の成功を祈り、今日も一人の女性に、彼女がしていることは姦淫の罪を犯していること、神の罰を受けなければならないことなど、無知な相手に根気強く語り聞かせ、神を知らしめることができたことを喜び、気力も一層充実し、満足感と自信に満ちていた。季節は雨期となり、連日雨が降り続き、外を出歩く人もいない。蒸し暑い日が続く。毎日降り続く雨は、次第に彼の気力を萎えさせていく。アルコールの力を借りて気持ちを奮い立たせようとするが、体力も衰え、憂鬱さも日増しにつのり、ついに自分がかつて断罪した女性と同じことをしてしまう。自信も誇りも失い、自らを裁き、ピストル自殺をして生涯を終えてしまう。外は相変わらず、今日も雨が降り続いている。
人間の歴史は知性や理性と粘り強い意志によって環境や状況を克服してきた歴史だと言えなくもないでしょう。しかしその歴史や、思い上がり思い違いの影には多くの悲劇、不幸、悲惨、貧困をも生み出した歴史でもあります。
人間の意志の強さと言っても、我々自身の利便性の追求であり、欲望追求の強さです。競争社会の中で傷ついた者、倒れた者、教育の選別化、差別化で落ちこぼれた者を生むのでなく、着たい食べたいという尽きない欲望から、分けあい、仕えあう生き方へと変える強さでありたいと思います。人が本来持っている思いやりと愛との回復、たとえ自然の中での存在は弱くとも、自然のリズムに逆らわず調和した生活に戻ろうとする意志の強さと選択によって、歪められた人間性を回復することが何よりも求められていると思えるのです。

司祭 エリエゼル 中尾志朗
(松本聖十字教会牧師)

『「せっぱつまって・・・!」』

『しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。』  (詩編51:19)
ある日、ナタンがダビデ王を訪ね、謎めいた話を語り始め、王としてこの話をどうお思いになるかと訊ねると、王は「そんなことをした男は死罪だ」と激怒します。ナタンは静かに王に向かい「その男はあなただ」と告げるのです。
部下をアンモン人との戦いに出陣させ、自分ひとりエルサレムに残り、情欲のために部下の妻を召し入れ、女が身ごもるやその悪事を糊こ塗とするためにその夫である部下のご機嫌をあれこれ取るものの、それが上手くいかずと知るや故意にその部下を戦死させ、夫の死の悲しみにくれる女を召し入れて妻とする。読むたびに何とひどいことを・・・。憤りを覚えるところです。
ダビデは誰にも知られぬようにひた隠しにしていた罪を暴かれてしまいます。当時は王の故に居直ってもおかしくない時代であるにもかかわらず、彼は懺悔の祈りをせずにはおられませんでした。やはりダビデのダビデたるところでありましょう。王であることも、人目をはばかることも忘れ、神の前にただ一個の罪人として泣き崩れた彼の砕けた心を歌ったのがこの詩編なのです。
同じくヘロデ王も姦淫の罪を犯します。彼は自分に向かって意見したバプテスマのヨハネを投獄し、悩みながらも処刑してしまいます。ヘロデはその後、神の前にその罪を悔いることなしに生涯を終えることになります。
『人間というものは知らず知らずの内に、変わっていってしまうものなの・・・。
せっぱつまった状態に置かれると、そうすることが正しいかどうかを見極めずに、取り敢えず問題を解決しようと飛びついてしまう・・・。そのうち、それが正しいという錯覚に陥り、そういう生き方をするうちにそれに慣れて道理を見失い、目先の事しか見えなくなってしまう・・・。』 (韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」より)
罪を犯してもなかなかそれを認めようとせず、これくらいは誰でもしているではないかと思ってしまい、素直な砕けた心を持つことができなくなっていきます。自分はヘロデとは違うと誰が胸を張って言えるでしょう。それは個人のレベルにおいても然り、国や、国と国とのレベルにおいても、権力や武力、はたまた正義をかさに押さえつけ、自らの非や罪悪を認めるどころか、自らを正当化することに専心します。
しかしダビデはヘロデと違って自分の罪を悔いたのです。神の前にいかに自分が罪深く、自分ではどうすることもできない罪を悔い、ひたすら神に救いを求めます。それ故神に選ばれた王としての歩みを続けることを許されたのです。罪に泣いたダビデに与えられた救いの約束、それは将まさに、イエスの十字架によって今の私達にももたらされている救いの約束でもあることを今一度心に留め、赦され、生かされていること、そして、なにゆえ生かされているのか、と考えずにはおられないところではないでしょうか。
司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(松本聖十字教会牧師)

『雪がとけたら』

主の復活をお喜び申し上げます。
毎年イースターを三月下旬から四月中句末頃までに迎えます。この日本においては、まさに春を迎える季節と重なります。特に私達の教区でも新潟県や長野県に生活する者にとっては、気の重い屋根の雪下ろしや、毎日の天気予報に一喜一憂し、腹が立つやら、切ないほどに繰り返される雪かきに追われていた重労働から解放され、心身ともに晴れ晴れする、待ちに待って、待ち焦がれていたところのすべてが躍動する春のイメージそのものです。
「雪がとけたら…(イースターの)春になる」

何と喜びと希望に溢れた言葉の響きでしょう。
私達は先の大斎節において、主の十字架の苦難を偲び、神の愛を想い、断食など種々の欲望を絶ち、懺悔と祈りの特に聖別された期間を過ごしました。しかし、主の十字架の苦難を想うことに期間のあろうはずはもちろんありません。とそう言いつつ、メリハリも無くイースターを迎えてしまう事もないわけではありません。大切な事は、形式的な断食や禁欲でこの大斎節を過ごすのではなく、主が悪魔からの誘惑を退けられたように私達も真剣に戦い、神の力に助けられながら誘惑に立ち向かおうとする姿勢を忘れてはならないことだと思います。
敵意をもつ人々の謀略により十字架にかけられ殺されてしまった主イエスの最後は、弟子達には大きな衝撃であった事はいうまでもありません。イースターの朝、マグダラのマリアがもたらした主イエスの復活の知らせも、自分の目で確かめた空の墓の事実も、エマオから帰ってきたクレオパの報告にも確信できず、ペテロは仲間と一緒にエルサレムを逃げ出し、ガリラヤ湖畔に帰ってしまいました。弟子達も主イエスの復活を確信できなかった様子を正直に聖書は伝えています。四つの福音書がこの主の復活について語るところは、「復活は可能か」、「復活された主の状態(肉体か霊体か)」「復活の意味する事」などについてではなく、復活された主に接した人々の経験を中心に、この人々がどの様に変わったのか、変えられていったのかについて語っていきます。聖書は信仰が理論や理屈ではなく、生活である事をも語っているのです。
主の復活は私達人間の理解を超え、常識を打ち砕く出来事です。歴史的な事実として納得できるまで確かめようとしても不可能な事です。空の墓をいつまでものぞいている姿に他なりません。主はもうそこにはおられないのです。
復活の主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」方であり、生きて今私達と、今私と共におられるのです。共におられる主にあって毎日の生活を営み、共におられる主にあって感謝と讃美を奉げます。
四つの各福音書は主の復活の物語で結ばれています。しかし、復活の主に出会い、新しい生命を受け、生かされ生きている者達の手によって記されていく第五の福音書の著者は誰でもなく私達白身であり、ひとりひとりが「復活の証人」とされています。たとえ挫折や失敗、裏切りを繰り返す弱々しい者であったとしても、その故にこそ福音を証しする器として必要とされています。その呼びかけに少しでも応えられますように祈って参りましょう。イースターの喜びと感謝とともに、心も新たに信仰を生活する私達自身の言行録の新たなページを記して参りましょう。
司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(松本聖十字教会牧師)