「行っていらっしゃい」、「ただいま~、お帰り~」

3月末、長野県から新潟県に移りました。4月6日現在は新潟聖パウロ教会の司祭館に荷物を解き、片づけているところです。住まいは新潟で、管轄は三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会、そして聖公会聖母こども園にチャプレンとして関わっています。

10年ぶりに入ってみた新潟の教会ですが、「あーそうだ。おもにこの部屋を事務室として使っていたし、ここにはあれそれが置いてあった」というような記憶がもどってきます。そして私の跡がそのまま残っているところがあって、一方では不思議感まで漂います。これから新潟の信徒さんに徐々にお会いできる機会があると思いますので、また楽しみにしています。

4月の最初の主日は三条で復活日礼拝を献げ、イエス様のお墓に向っていた婦人たちが「誰があの大きな石を転がしてくれるだろう」という話をしていたところについて説教をしました。それは単純なお喋りではなく「主よ、石の扉を開けてください。そして墓から出てきてあなたの教えていた通り自由を生きてください。そしてわたしたちもその自由を生きることができるようにしてください」という祈りではなかったのかな~という話をしました。そして普段日常の中で心を分かち合っていた信仰の仲間たちが一緒に祈ることによって力を合わせていたことを意味するということだろうとメッセージを伝えました。人間誰だって心に大きな石を抱えているはずだから、もし私が皆さんに「そこの誰か石を転がしてください」と叫ぶ時は是非耳を傾けて欲しいですし、皆さんも「そこのだれか石を転がしてください」と叫ぶ時には私も応えられる、そういう関係をつくっていけたら嬉しいと言いました。

長岡聖ルカ教会は今度の主日に行く予定ですが、樋口正昭さんと連絡を取りながら信徒さんの安否や牧師館の使用不可状況の話、そしてベストリーの屋根の修理について情報を得ています。皆さんと一緒に礼拝を献げて、長岡教会の方々が今まで手を合わせて祈ってきたことについてその悩みを分かち合うことから始まる長岡での主日を期待しています。

三条聖母マリア教会の集会室に信徒の西川愛子さんがお描きになった和画が掛けられています。広い草原に一人の少女が草場に座って、鳥かごの中から小鳥たちを出して自由に放ってあげている絵です。少女が座っている草場にはクローバーがいっぱい生えていてそのクローバーは白やピンク色のお花を咲かせて単純な緑ではなく他の種類の草も細かく描かれています。絵の中の少女の顔からは小鳥を自由に放ってあげることによる喜びの表情だけではなく、小鳥たちとの別れを寂しく思うような表情も感じられます。小鳥たちも少女から離れることに未練が残っているのか、少女の肩に座っている小鳥や少女の手のひらから離れない小鳥もいます。

しかし、もうすぐ小鳥たちは青い空に向けて飛んでいくでしょうし、少女とは別れなければなりません。長野を去る時に長野の方々が渡してくださった挨拶はサヨナラではなく、「行っていらっしゃい」でした。小鳥を放して飛ばそうとしている少女の心は、小鳥たちの旅立ちを応援するとともに名残惜しさも多くあったかと思います。その心を受けて新潟に着いた私は、主において兄弟姉妹となった新潟県の信徒の方々の心の扉の前に立って「ただいま~」と声を上げてみます。絵の中の上の部分に教会が見えますが、遠くから「お帰り~」という声が聞こえてくるような気がします。
司祭 イグナシオ 丁 胤植(三条聖母マリア教会・長岡聖ルカ教会牧師)

祈りと実りと歌がある庭園

昨年度の飯山復活教会の教会委員会にて承認された今年度事業計画の一つは、テモテ田井安曇(本名:我妻泰)さんの歌碑建立でした。今年、前管理牧師から引き継いで6~7回教会委員会を重ね、歌碑建立について話を詰めてきました。田井さんについて出来るだけ多くの方々に知って頂きたいと考え、長野伝道区合同礼拝の日(9月11日)に歌碑除幕式を行うことを提案しました。教会委員会は勿論、「田井安曇の歌碑建立有志の会」(以下、有志の会)でもその提案が受諾されました。
歌碑を教会の敷地内に建てたいという希望は、最初は有志の会から出されたことですが、飯山復活教会としても、歌碑が建てられる教会の庭に新たな名前を付けて整備しようということになりました。単に教会の敷地の奥にぽつんと一つ歌碑が立っているのではなく、教会堂そして庭と調和するように考えました。
教会の庭には「ラビリンス」もあります。ラビリンスとは、古代ギリシャ神話の巨大な迷宮に由来するものです。しかし、ラビリンスは迷宮や迷路とは大きく異なるものです。普通の迷路は外に出ようとする人を不安にさせるものですが、教会のラビリンスは人を真ん中へと誘導するもので、ゴールが分かっているため平安な心で歩いていくことができます。真ん中に着くまでゆっくりと歩むことを通して、考えたり祈ったりすることができるようになっています。自分を振り返り自分をもっと愛する心を持つことがこのラビリンスの目的です。
『短歌』という雑誌の第53巻第12号に田井さんが書かれた文章があり、自分の人生には二つのアジール(救いの手)があったと記しています。その一つが「教会(司祭)」でした。具体的な名前まではありませんでしたが、書かれた年から寺尾平次郎司祭であると考えられます。寺尾先生は、牧師館の2階に何人もの人を住まわせていたのですが、その中に元海軍下士官で靴職人の高橋富士雄さんという方がいました。その彼が当時中学生だった田井さんに歌を教え、そんな関係の中で田井さんは歌人としての人生の方向が決まったと思われます。

蝉のこえ
充てる胡桃の木の下に
アンゴラと牧師と遊ぶ夕暮

田井安曇自選50首の一番前に載ったこの歌が歌碑に刻まれます。牧師という単語が出ていることを見ると、寺尾先生が田井さんの人生にどれ程大きな影響を与えたのかが分かります。
教会の庭園には柿やラズベリーなど、実を結ぶ各種の木々があります。そして美しい花々が咲き、風にそよいで自然に踊っています。歌碑はその中に建てられます。庭は単なる教会の庭ではなく、「祈りと実りと歌がある庭園」と命名されました。祈りのある人生によって多くの実が結ばれ、自然の中で希望の歌を歌うことができる、そんな道へといざなう庭園になればと思います。飯山復活教会を訪ねてくる方々が、たとえ一瞬でも幸せが感じられることを願っています。その中で歌碑は飯山復活教会の大切な物語を語り続けます。
(長野聖救主教会牧師、飯山復活教会管理牧師)

『青年期の自分に出会う。そして、友達…。』 

先日、韓国に行ったときのことです。高校卒業で離れ離れになり、その後探し続けていた親友とやっと電話がつながりました。彼を通して、他の同窓の友人たちの近況も聞くことができました。さらに今回、大学の親友にまで会うことができました。彼らと話ができたのは、1993年の卒業以来ですので、約20年ぶりのことです。電話一本ですぐ会えたのに、何故こんなにも会うのが難しかったのか。何故こんなにもその道のりは遠かったのか。
4年間の大学時代は、私の人生の花と言える時期です。信仰を通して交わるという初めての経験、その中で築いた親友との格別な友情、友達の狭い部屋に上がり込んで文字通り体をぶつけ合いながら過ごした貧しい暮らし。時には友人の痛みに深く関わり、時には少し離れて見守りながら、お互いに支え合った時期。出会いと別れ、慰めと励ましを共に経験した時期でした。
親友と再会している内に、学生時代にお世話になった沢山の顔が目に浮かんできたのですが、その中でも特に二人の先輩を思い出しました。人生の目標が明確ではなかった私に、信仰の灯火を点けてくれた先輩です。その一人は、イエスは生きていて私を愛しておられることを私のこの胸にしっかりと気づかせてくれた人です。もう一人は、大学職員として就職した後、全てを捨てて牧師の道に進み、さらに詩人へと変貌を遂げながら、素敵に生きていた人です。すでに二人とも神様のもとに旅立ってしまったのに、「ありがとう」の言葉を直接伝えることができませんでした。豊かではなかった時代、本当の兄弟姉妹のように後輩の面倒を見て、食べ物を用意してくれた先輩たち一人一人の顔が浮かんできます。希望が見いだせず、暗く、袋小路に迷い込んでいた私に、柔和な表情を一変させて鬼の顔になって怒鳴ってくれた先輩たち。「こんにちは」ではなく「幸せでね」「幸せに生きるのよ」と、挨拶する人たちでした。
さて、大学4年間、一緒に暮らしていた友人の一人にインムクという名前の人がいました。インムクは、1年生の時から偶然同じ下宿の同じ部屋を使うようになって以来の親友です。ある日、インムクの実家から連絡がありました。「弟が死んだ」と。インムクは受話器を下ろすと、急いで家に向かいました。私も翌日、何も考えずに彼の実家に向かいました。しかし若かった私にはインムクに慰めの言葉を言うこともできません。とにかく、ただインムクの近くに座って顔を見ていただけでした。その時のインムクの一言、「弟とあまり話ができなかったことを後悔している」の言葉は、今でも耳に強く残っています。私たちは顔と顔を合わせて出会い、話を聴くことを大切にしようとしていたはずなのに、自分たちにはそれができていない。私自身も、友人が辛い時に何もできない自分に、至らなさを感じていました。ところがインムクは、後になって、「大変だったときに、一緒になって座っていてくれた人」と、私のことを表現してくれたのです。
今回、久々の再会を通して、あの頃を思い出し、出会うこと、交わることとは何かを振り返ることができました。神様は、あらゆる方法で、出会いと交わりを通して和解の業を成し遂げようとされています。倒れて立ち上がることも困難な人たちと共に、まず一緒に座ることのできる私でありたいと、今、改めて思っているところです。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師、稲荷山諸聖徒教会管理牧師)

『歌い続ける物語』 

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(1コリ2・7)

神の御国は永遠に語り続けられるからこそ意味があるものだと思います。聖書はファンタジー的な要素をたくさん含んでいます。そのファンタジーは聖書を物語として聞かせるときに非常に大きな感動をもたらします。

第2回世界聖公会平和協議会があって沖縄に行ってきました。沖縄は美しい自然環境の中に大きな痛みを抱いている、とても切ないストーリーの物語の世界として比喩することが出来ます。今回の沖縄の旅の中でも、いつもと同じく語り部(平和ガイド)さんがお話の風呂敷を解いてくれました。沖縄の緑溢れる自然景観の裏にどのような苦しみがあったのか、どのような歴史が広げられて、どのような神様がどのような命を造られて彼らと共に生きていたのか等について…。

韓国の古典童話には虎がよく登場します。子どもがねだったり泣いたりすると、今も不思議ながら大部分の韓国の親は「虎が来てワアオするよ」と言い、子どもが泣くのを止めています。虎が出てくる韓国の物語は非常に多いですが、虎は単純に怖い存在だけではなく、山を守る仙人として自然と命を守る存在でもあります。

沖縄にもこれと似た存在があると聞きました。キジムナーという妖精です。沖縄には本土には無いガジュマルという木があります。キジムナーはその木に住んでいたそうです。ガジュマルは枝についているひげ根が下に伸びて派手な姿の太い枝になります。そして、その実は鳥やコウモリの餌になるので、その木自体が自然と命を守る象徴的な存在であることを感じさせられます。その木に住む妖精のキジムナーも、物語の中では悪戯っ児に現れる怖い存在でもあって、子どもの躾のため親たちによってその名前が使われています。キジムナーも単純に子どもにとっての恐怖の対象ではなくガジュマルと一緒に沖縄の命を守る神的存在だった訳であります。平和ガイドさんは、「戦争でガジュマルが燃えたとき、キジムナーも一緒に死んだと言われていた」と非常に寂しげに言いました。

沖縄を守って、山を守って、この地に住む人々を守る木の妖精が戦争によって人工的に作られた爆弾で燃やされ傷ついたとき、この地を守る妖精も一緒に死んだのかもしれないと、幼い心に傷を抱いているその子どもは、今は白髪の大人として、この地を訪ねてくる大勢の方々に心そのままを伝える平和ガイドになりました。

キリスト者として、わたしたちは聖書を読んでイエス様の愛を通して命の物語を語って、世の中に平和を妨げる艱難と逆境があっても(憲法改正問題等)、わたしたちの人生はそれを切り抜けて生きる価値があると伝え続けてきました。

沖縄のその子どもが今も希望を失わず平和を語り続けているように、たとえ弱い力しか持っていなくとも、小さな手を取り合うことによって、決して平和は消えないと歌い続ける勇気が欲しいと思います。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師)

『私の祈りを紹介します。』 

今年に入って、私は最初の祈り(観想祈祷)として「私自身の存在」について神様に尋ねました。

「主よ、私の名前は何でしょうか」と。

「内容(心)が分からない者」という答えが聞こえてきました。

私はまた聴きました。

「主よ、こんなに単純な私がなぜ分からないのでしょうか」

主は答えてくださいました。

「しかし、希望を持っている者、期待される者。私はお前と共にこの新年を開こう」

再び聴きました。

「新年を開くとは何でしょうか」

主の答えは「呼吸、生きること」でした。

その答えを聞いて、私はすぐにこういう内容で新年の最初の祈りを捧げました。

「新年を開く方は主ですけれども、私をあなたの御働きに参加させてください。そして私の新年に主が参加して頂き私の人生を開いてください」

意図的に何かを考えた祈りではなく瞬間的に出てきたことだったので、本当に不思議に思いました。

ところが一つ、「あなたは内容が分からない者」という言葉で気持ちがすっきりしなくて、今自分は主にさえも何か隠そうとしているのかなという思いで悲しくなりました。そんな気持ちのまま翌日を迎えました。ヨセフとマリアが赤ん坊のイエス様を連れてナザレのほうに逃げたという聖書の部分を読みました。ナザレという単語にふれたとき、ほんの1秒にもならない短い時間に、この「ナザレ」は「内容が分からない者」と同じことを示しているということに気づかされました。メシアとはふさわしくなさそうな田舎のナザレ、しかし赤ん坊のイエス様がそこに行かれたことによって希望があり期待される所となった、そこが私自身の心であるということを知らせてくださったわけであります。

その後、もう既に1ヶ月半が経ちました。その間、私の祈りは次のように進んできました。創世記25章19~34節とマルコによる福音書9章30~41節を読んで黙想していた時、感じたことがあります。創世記に、リベカがお腹の双子が喧嘩していたため神様の御声を聴こうとして(祈るため)出かけたと記されています。とにかく、リベカの二人の息子たちは仲が良くなくて、兄は弟に騙されてパンとレンズ豆の煮物で長子の権利を譲ってしまう過ちを起こしました。軽々しく扱った長子の権利とはいったい何を意味しているのか気になりましたが、そのまま継続してマルコによる福音書を読みました。

弟子たちはイエス様の話に対して議論をしましたが、怖くてイエス様に聴こうとしませんでした。イエス様は一人の子どもを彼らの真ん中に立たせてこうおっしゃいました。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マコ9・37)

私は、長子の権利ということは、とても小さな者を受け入れることと関係があるということに気づきました。

一緒に祈る仲間の人からこういう話を聞きました。「マルコによる福音書に、イエスの弟子でもないのにイエスの御名で奇跡を行う人たちについての話が出ていますが、考えてみれば彼らは力を持って働いたことで弟子たちは逆に弱い者だったという感じを受けます」と。

その時、主は私にこうおっしゃいました。

「弱さをあなたの真ん中に置きなさい、弱いことを嬉しく思いなさい。私が助ける」と。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師)

『「だから、 やめよう」 と言わず「だけど、 やってみよう」』 

皆さんはきっと、 「求道者が与えられて欲しい」 「若者、 子どもたちが加わって活気溢れて欲しい」 等という言葉を言ったり聞いたりしたことがあるでしょう。
もちろん、 信仰を通して夢を語り、 幻を見ることはすごく大事なことですが、 若者がほとんどいない状況で、 何の動きもせず、 ただ、 若者が入ってくることを待つだけでは限界があると思います。 本当に若者、 子どもに加わって欲しいなら、 彼らを迎え入れる準備が必要であるのは当然のことです。 彼らをただ礼拝、 またはプログラムに誘うのではなく、 彼らが関与して作り上げる集会でなければならないと思います。 つまり、 彼らの意見・考えが受け入れてもらえる雰囲気が必要であり、 そのためには、 どういう意見でも遠慮なく、 互いに話し合うことの出来る、 気軽に入れる輪作りが大切だと思います。
私は教会の中に、 新しい信徒 (求道者含) を担当する奉仕の役割があったら良いとずっと思っていました。 それは礼拝の案内をするだけではなく、 興味を引く魅力ある何か (温かい心・証を交えて) を一緒に分かち合える、 救いについての話 (ある意味、 教理) を柔らかく紹介する役割を言います。 これは、 信徒教育システムのことです。
このような話を聞くとすぐ、 「そういうのを我々にさせても、 それは無理だ」 とか 「信徒が、 教えることまですると教役者は何するんだ」 等の反論が出るかも知れません。 しかし、 これは今日の教会のトレンドである 「小グループ運動」 に当たるものです。 小グループの勉強会を通して、 信徒同士が励まし、 慰め、 祈り、 分かち合うことによって、 関係を密にし、 教会のリーダーを育てるという大きな意味を持ちます。
それのためには、 教会内で 「教理教育クラス」 が随時運営されることが必要です。 できれば毎日のように、 毎週のように勉強会があって、 最初は信徒さんが気軽に参加し、 その教育を繰り返して受けているうちに自然に自信を持って福音を語ることができるようになります。 適切な段階に入ったら、 リーダークラスを別に結成し訓練を深めることによって、 準備は整えられます。
その後、 例えば全体10回日程の教育なら、 その中の科目の講義を一人一つずつお願いします。 信徒数が少ない教会では大変な企画になる可能性はありますが、 できるだけ多くの方が参加できるように、 牧師を含め教会委員の積極的なお勧め・お誘いが必要です。
10人の信徒が、 それぞれ自信がある科目を通して新しい人と交わり (勉強より、 人が大切) を持ったとしたら、 その新しい人が洗礼・堅信を受ける頃には、 もう既にその10人のリーダーと新しい信徒の間では人格的な良い関係ができているので、 一石二鳥以上の効果があると私は確信します。 しかし、 皆さんのご心配の分、 確かに相当の努力が必要となるでしょう。
イエス様が十字架に掛けられる前に、 「だから、 やめよう」 となされたとしたら、 私たちの大切な救いへの約束も希望・夢なども何の意味もないこととなってしまうでしょう。
十字架に掛けられる前のイエス様の知られてなかった言葉はきっと、 「だけど、 やってみよう」 ではなかっただろうかと思います。
司祭 イグナシオ 丁胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)

『「私は夢見る人です」 と堂々と言いたいのですが…。』 

私は新潟に来てから、夏のキャンプのシーズンがやってくると同じ夢を見る人になります。この2年間はキャンプから帰ってきたらいつも、子ども日曜学校を作ろうと思いました。夢見るだけの人でとどまっているのかも知れませんが……。
さて、今年も子どもたちに大きなことを学んだキャンプでした。チャレンジキャンプの日程は8月の10日からでした。新潟からは3人の子どもたちが参加しました。柏崎あたりを通っていたところ、急に、雷を伴う滝のような激しい雨が降り始め、前方が何も見えない状況の車の中でこういう話をしました。
「去年もキャンプファイアが出来なかったのに、今日も無理かな~? 残念だね」
そのとき、小学2年生の風間剛くんにこう言われました。
「先生、でもね、僕は雨がずっと続いて降って欲しいな」
「なぜ?」と聞いたら、
「雨が止んだら、虹がすごく綺麗に見えるでしょう」と答えました。
なるほど。夢とは今すぐ自分がやりたいキャンプファイアを求めるようなことではなく、思わぬところで現れる小さな感動を期待するようなことではなかろうかと気づかされました。結局、雨は止み、初日の夜はキャンプファイアが楽しめました。
キャンプの最後の日のことです。小学5年生の佐藤菫ちゃんが入っていたグループから、キャンプの中でいろんなことを教えてくれたり、手伝ってくれたりした大人の方々にお礼の歌をプレゼントしたいので、集まってもらいたいという話がありました。
初めて聞いた歌でしたが、最後の歌詞が「アイ ビリービン フューチャー 信じてる」で、メロディーも綺麗でした。何より感動したのは、子どもたちの心が感じられたことです。その感動を忘れたくなかったので、そのときの心をそのまま短い曲として残してみました(写真)。
夢とは心を動かせることで、動けば動くほどその動きが大きくなるようなことだと感じさせられました。
キャンプの間、プログラムディレクターとしてキャンプ全日程を活発にサポートしてくれた漆原隆二さんという人がいました。帰りの車の中で、小学4年生の風間光くんにその人の話をしながら、
「チョン先生はね、その人の明るい性格がうらやましいんだ」と言ったら、光くんはこう言ってくれました。
「先生もきっとそうなれるよ」って。
ただ、うらやましいと言うだけの夢、そして日曜学校を作りたいと思うだけの夢などは、何の力もなく無意味のように見えるかも知れません。しかし、いますぐでなくてもいつかは綺麗な虹が現れるだろうと、そして私と同じ夢を見る人が一人二人現れるだろうという期待をもって、激しい雨の中、ハンドルを握っていたときをもう一度思い浮かべてみました。

司祭 イグナシオ 丁 胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)

『「日本海」・「東海」』

新潟聖パウロ教会は、中部教区内でも大きな教会の方に属します。幼稚園やその他の施設はありませんが、思いッキリ、宣教・伝道について考えてみる事が出来る、非常に良い条件を持っている教会だと思います。
牧会経験が余りにも少ないシロウト牧師が中部教区の大きな教会に来るようになったことの不思議さを思えば、「きっと神様が私に何かを求めておられるのだ」 と強く思わざるを得ません。私の体型の様に少し鈍い私が、新潟聖パウロ教会に対する神様のみ心を解るまでには長い時間がかかるでしょうが、いつかは気づくようになるだろうという思いです。
一昨年は名古屋聖マルコ教会で、牧師というよりは留学生の感じで過ごし、昨年は主教座聖堂である名古屋聖マタイ教会の副牧師 (働きは少なかったですが)、その1年後の今年は新潟聖パウロ教会の牧師になり、しかも伝道区長にまでなっているのをみると、神様は冒険が非常に好きな方だと思われます。
昨年、名古屋で幼稚園の先生をしていた青年から野菜の種をもらった事があります。数ケ月前、そのうちのカブを司祭館の裏側に蒔きました。最初は失敗してもかまわないという軽い気持で種を蒔きましたが、予想以上に早くそして丈夫に育ってくれて、キムチを作って食べる事も出来ました。畑と言うには恥ずかしいくらいの畑 (車1台駐車出来るだけの空間) ですが、毎日忘れず水をやり雑草をとる等の仕事をしながら、時に期待して時に心配するという心、この農夫の心がまさに神様の心なのだろうなという思いでした。
普段日本で簡単に手に入るのは白菜キムチなので、カブのキムチがどんな味なのか気になる方もおられると思いますが、私には懐かしい故郷の味でした。
韓国が懐かしくてという訳ではありませんが、海が近いので2回ほど海岸に夕日を見に出た事があります。日本では 「日本海」 と呼ばれているこの海を、韓国では 「東海」 と呼んでいます。ただ眺めるだけなら、何事もなかったかの様に平安だけが伝わって来るこの海 「東海」 を見て、この海に流した大勢の人々の涙・汗・血が思い浮かんでくるのはどうしてでしょうか? 「マンギョンボン号」 でも有名な新潟、これからこの場所でどんな事が起こっていくのか、心配半分、期待半分という気持ちです。
まず、一番にしたい事は、たくさんの人々に出会うという事です。また、教会に来られない方々を訪ねる事も、喜びを持って徐々に徐々に進めています。
韓国の東海岸から眺めていた 「東海」 は、日が昇る海でした。希望を持って計画し、そして何かを始める、そういう海でした。一方、新潟から眺めるこの 「日本海」 は日が沈む海です。後ろを振り向いて整理し、そして 「また頑張ろう」 と自分に念をおす、そういう海です。しかし、結局この二つの海は一つであって、この海から日が昇り、またこの海に日が沈んでいく訳です。
絶えることなく日が昇りそして沈む事を繰り返すこの海の様に、私の新潟での生活、そして働きにあって、多くの出会いを絶えず続けていけたら嬉しいなと思います。
司祭 イグナシオ 丁 胤植
(新潟聖パウロ教会牧師)