合資会社八丁味噌の概略
★創業
1645年(江戸幕府成立42年後)。
このころには城下町岡崎の都市化が進んで食料を自家生産しなくなった人口が増え、味噌の市場が出来ていた。
★味噌屋にとって好条件だった八町村
矢作川と東海道の交わる場所。
矢作川 運輸の大動脈
東海道 情報のルート(マスコミが無かった時代に)
幕府成立後に川も道路も整備された。
塩は吉良から、水は矢作川から良質のものが得られた。
★八丁味噌企業化の下地
「1625年に風味の良い味噌を造るのに成功し、近所の人に分けて好評だった」という言伝がある。
これは三河武士や家康が食べていた豆味噌の改良が行われ、専業の味噌屋が始まるキッカケとなる話と考えられる。
人間には世の中が平和で豊かになると、うまいものが食べたくなる習性がある。
★早川家(世襲経営者)先祖の先見の明
創業の前後からと考えられるが、年貢が納められなくなった農家から田畑をかなり買った。
これが後世の工場用地拡大に役立った。
現在の本社所在地である八町村ばかりでなく、近くの村の土地も買って味噌屋経営の安定を図った。
農民社会の階層分化を示す出来事でもあろう。
★平穏だった江戸時代の経営
早川家には1700年代半ば以後になると年季で奉公人を雇った証文がいくつも残っている。
土地を買うとともに奉公人も雇ったことは経営が安定していたことの証拠と考えられる。
1700年代後半には江戸へも海路で味噌を出荷していたと伝えられ、また大豆を日本各地から仕入れた大福帳もある。
遠くは八戸(青森県)、壱岐(長崎県)、越後(新潟県)などから。
★幕末一明治のインフレと不況
1860年前後から維新の政変に伴うインフレで大豆も味噌も数倍値上げされ、明治2年がピークだった。
だが当社には同10年代半ばのデフレのほうが深刻で、味噌の売れ行きが落ち込み危機的状況にあった。
しかし宮内省御用達を許可されるなど積極的活動で危機を乗り切ることができた。
★明治後半一大正は急成長期
その後、昭和に入るまでは大豆の仕人れ量が急増、経営体質の強化で借金から解放され、新しい店や仕込み蔵などの建設が行われたり、黄金時代だった。
20年間に仕込み量が3倍増、これは年率約6%成長である。
★戦時統制と戦後の復活
昭和になると戦争のため15年9月の統制で八丁味噌(カクキュー、まるや両社)は本来の八丁味噌の製造・販売ができなくなり、以後10年間は統制に苦しめられた。
当社は統制解除後も資金難から従業員を解雇したこともある。
30年代初めに「赤出し八丁味噌」を発売、これで息を吹き返した。
以後は製造工程の近代化が進み、史料館も出来て世間の注目を集め、1996年には建物2件が国の登録文化財となり、1999年には赤出し新工場が完成した。
豆味噌が東海地方に多い理由
(本文は主として「豆味噌と溜一一その歴史的開設一一吉原精行」を参考としてまとめた。この本の出版は昭和37年3月)
本書第二部(括弧して『二』とある部分)3ぺ一ジには
「平安朝前期ころから味噌に米麹を用いることが全国的にひろまって来たが、東海地方では米味噌を造るのに、大きな障害をなすものがあった。それは夏期の高気温である。
…(中略)…
7月なかごろから気温とともに品温もまた急に上昇、8月の初めごろからなかごろにかけて、年内の最高品温に達する。
味噌も腐敗し始める時である」
と書いてある。
日本国の、他の地方よりも東海地方は特に夏の暑さが厳しいということだろう。これについては八丁味噌社史「山越え谷越え350年」177ぺ一ジの「▼高温下でも泡を吹かない八丁味噌」の部分を参照してほしい。
その内容は次のとおり。
熟成された味噌のなかには酵母が存在する。
酵母が生存に必要とする物は栄養(澱粉)、適当な温度、酸素である。
豆味噌と米味噌や麦味噌との決定的な違いは栄養である。豆味噌は大豆だけを原料穀物として使用するが、大豆のなかの澱粉はほかの穀物におけるより少ない。
米味噌などの場合は大豆以外の穀物も使用するから、酵母の栄養になる澱粉の割合は高くなる。豆味噌と比べて酵母が多い米味噌などでは温度が高くなると酵母が勢いを得てさらに増殖し、発酵が過度になりやすい。
というわけで「東海地方では米味噌、麦味噌が敬遠されてきた」ことになる。
「米味噌と豆味噌を混ぜると味がソフトになる」と一般的にいわれてているが、平安時代でも同様だったらしい。
現在、当社(合資会社八丁味噌)における「赤出し八丁味噌」と、昔からの「八丁味噌」との出荷量
比率は約8対2であるのも、ソフト志向の現代ではうなずけるところだ。
しかし耐久性となると話は別である。特に冷蔵庫がなかった昔では決定的な違いだった。
文献によると味噌については最初、奈良や京都などのことが出てくる。
そのなかには、例えば「味噌沿革史」93ぺ一ジには「未醤も大豆一石、米五升四合、麹小麦五升四合、酒八升、塩四斗を原料として僅かに『一石』を得」とあるが、これは「延喜式」のなかの言葉であり、延喜式が書かれた地域は近畿地方である。
こうした経緯を考えると、近畿地方では夏の暑さが東海地方ほど厳しくなかったのだろうか。
つまり未醤(味噌または味噌と関係が深い物)を造るのに原料として米をある程度用いていたことが伺われるから、近畿地方では米味噌が造られていたと思われるのだ。
現在と延喜式出版当時とでは気侯が違っていたことも考えられるが。
味噌の地域的分布については各種の説があるが、以上に出てきた気温説は比較的妥当と思われるので紹介した。